Moto Guzzi V11 Lemans tenni オモボノ・テンニの名前を冠した名車である、モトグッチ(Motoguzzi) V11 ルマンテンニ(Guzzi V11 Le Mans tenni)の公式(offical)ファンサイト。エッセイやインプレッション、画像多数あります。オモボノ・テンニ( Omobono Tenni ) (1905 - 1948)について
オモボノ・テンニ( Omobono Tenni ) (1905 - 1948)について

 イタリアのプロサッカーリーグ・セリエA所属「トレビーゾ」(2007年末現在)のホームスタジアム
の正式名称にもなっている、偉大なるレーシングライダーであったのが、我らの「テンニ」なのです。
以下の長文で彼のエピソードを紹介しておりますので、トイレを済ませ、ワインでも飲みながら、
ごゆっくりとお読み下さい。

●モト・グッツィのファクトリーレーシングチームへの加入
19歳よりレース活動を開始し、その果敢な走りで名を挙げたテンニは、1934年にモト・グッツィの
ファクトリーチームに加入した事が,その名声を決定付ける事になったのでした。
往年のF1におけるマクラーレン・ホンダとアイルトン・セナとの組み合わせを、或いは最近のモトGPでの
ヤマハとヴァレンティーノ・ロッシとの組み合わせを連想させる、チームとライダーとの良好な組み合わせ
の見本と言えます。

●マン島での記念すべき勝利
 数ある彼の勝利(と転倒)の記録の頂点とも言え、彼の名前をイタリア人の間に刻み込んだエピソードが、
1937年のマン島TTのジュニアクラスでの優勝です。当時全盛期だったイギリス車を、そしてイギリス人
ライダー達を,彼らのホームグラウンドで見事に打ち破ったのでした。
GUZZI製250ccシングルレーサーによるこの勝利は、イギリス人以外の外国人が、イギリス車以外のマシンで
初めて勝利を成し遂げたと言う記念すべき事跡です。
 テンニ自身も前年の初参戦では、地元イギリス人ジャーナリスト達をして「黒い悪魔」と言わしめた程の
熱い走りを見せ付けながらも、転倒を喫してリタイアしており、また以後数回の参戦でも、晩年の9位が
最高である事からも、この勝利が彼自身にもかけがえの無い物であった事は想像に難くないと思います。
 テンニの名声が、他のイタリア人ライダー達より抜きん出ており、またモト・グッツィ社が、特別限定車に
その名を戴いた理由も、この件で容易に納得出来ると思います。
 
※閑話休題/モト・グッツィのマン島参戦とそのマシンについて
 モト・グッツィ自体がマン島の上位に顔を出したのが、1927年のライトウェイトクラスで2位と言う
結果でした。1930年代中盤より参戦回数と上位入賞が増えたようです。
当時のモト・グッツィ製のレーサーの特長は、リアサスペンションの導入で、量産市販車史上で初の
リアサス装備モデル「GTノルジェ」を1928年に発売した程に、足回りの発展に関心を示したモト・グッツィ
らしいのですが、他のメーカーは、この凝った機構には手を出さなかった様です(先駆者は孤独です)。
 実は、モト・グッツィ製モデルのマン島初優勝は、1935年にライトウェイトとシニアクラスの2クラス
優勝で達成されております。アイリッシュ(ダブリン生まれ)のスタンレー・ウッズが一人で成し遂げた快挙で、
テンニ優勝車のベースとなった250cc水平シングルシリンダーと500ccLツインシリンダー(120°)にて
記録されました(もし、アイルランドが独立したら、テンニの記録はどうなるのか?)。
 これを機に、モト・グッツィ製レーサーの構造に注目が集まり、他のメーカーもリアサスペンションの導入
(当然、グッツィを模倣して)を始めた様です。
尚、戦前(第二次大戦ね、京都人は「応仁の乱」と勘違いするらしいので、念の為)には、モト・グッツィ社は、
リアサスペンション等のフレーム関連、加給機の装備や4気筒、3気筒等のエンジン関連の新基軸を積極的に
試作して、レース或いはレコードブレーカー等に採用していたのです。創業者のカルロ・グッツィのやる気に
よるものですが、ひょっとすると本田宗一郎の様な方だったのかもしれません。
現存の写真では、結構ダンディな雰囲気の持ち主の様でしたが、テンニとの間にはどんな会話があったのでしょうか?
「カルロのおやっさん、やっぱ新しいこの機構は駄目だぜ。」「やかましい、調整の問題だけだ、すぐに
直すから、ちょっとまってろ。」と、こんなやりとりもあったのでしょうか?
●テンニの人気
マン島の結果は、当時は一部の物好きしか関心の無かったオートバイレースの結果にも関わらず、
イタリア全土に瞬く間に広く知れ渡る事となり、「テンニ」と「モト・グッツィ」の名前は、人々の間に
浸透したのでした。さぞ、熱狂的な歓迎があり、モト・グッツィ製バイクへの注目も集まった事でしょう。
確証はないのですが、ひょっとしたら、テンニは当時のイタリア国王ヴィットリオ・エマニュエーレV世や、
ドーチェ(総統)ベニト・ムッソリーニ(バイク好きでも有名だったファシズムの始祖)達に拝謁して、
勲章でも貰っていたのではないかと想像しております。目と鼻の先の地中海を我が物顔で闊歩する憎っくき大英帝国に
一矢を報いたのですから、国民の士気鼓舞の為に、こんな快挙を派手好きなムッソリーニが見逃した筈は無いと
睨んでおりますが、いかがでしょうか?

●中年ライダー奮闘
その後の第二次世界大戦を生き延びたテンニは、戦後すぐにモト・グッツィの主力として再活動したのでした。
多くの日本人は、イタリアが早期に降伏してすぐに平和になったと思っている様ですが、ローマより北の
ファシスト政権と、南の連合国寄りの政権に分かれ、1945年までイタリア人同士で内戦を戦っていたのです!
モト・グッツィ社敷地内にも当時の防空壕跡が残っており(今では倉庫として使われていましたが。)、テンニ達も
我々の祖父母の世代と同様に苦労した事が偲ばれます。
さて、戦争により最も充実する筈の30代後半を棒に振ってしまい、既に40歳を超えたテンニでした。
普通ならすっかり枯れてしまい、自然にフェードアウトしていくところでしょうが、どっこいさすがは我らが
「テンニ」です。なんと1947年(第二次大戦終了からわずか2年!)イタリア500ccクラスのチャンピオンに
なり、戦前と変わらず大活躍したテンニ(頑張れ! 日本のオヤジ達も!)です、さらなる栄光を期待された
事でしょうが、遂にその栄光に終止符を打つ時が来てしまったのでした。
 
●その最後
 1948年のマン島TTでは,新型V-ツインでクラス最速ラップを叩き出した直後に,点火系のトラブルで
突如ペースダウン,そして結果は9位でしたが、あるイギリス人ジャーナリストが書き残した
「まるで,コース際の壁に肩を擦り付けながら走っているようだった。」という記述通り、相変わらずの
果敢な攻めの走りで,観衆を沸かせていた「テンニ」でした。
しかし,それからわずか後,さしもの天才ライダーも最後を迎えるのです。

 マン島直後の夏に行われた、ベルンGP(スイス)の練習日、激しい降雨があったウェットコンディションの
コースで、GUZZI新型の250tツインレーサーの調整を兼ねながら練習走行をしていた彼は、二度とピットには
戻らなかったのでした。彼のクラッシュした状況の目撃者はおらず,未だに状況は謎のままです。

 それから年月は過ぎ,モト・グッツィ社を始めイタリアの老舗メーカーの大半がグランプリから撤退していた
1963年10月5日に,彼の故郷であったトレビーゾのサッカー・スタジアムの運営委員会は、
このスタジアムに郷土の偉大なる英雄である彼の名前を冠する事を決定したのでした。
(トレビーゾは,イタリア北東部のベネツィア近くの町です。)
サッカー関係者ではなく、何の関係もないと思われるレーシングライダーの名前をあえて冠したところに、
「テンニ」の大きな存在感が実感出来ます。
まさしく、グランプリ関係者やライダーのみならず、イタリア全土の英雄であったのです。



※記:2008年2月16日、上記内容は各種資料を元に、装飾を加えて書いて下りますので、
   歴史的な資料としての価値はございませんので悪しからず。
※参考資料は、次項に記載。
▼参考サイト; Il sito ufficiale del TREVISO F.b.c./トレビーゾ公式サイト( http://www.fbctreviso.it/
      ※トップページ上部の「SOCIETA」のサブメニュー「STADIO」でスタジオの歴史が
記されています。

       マン島TT公式サイト( http://www.iomtt.com/ )

▼参考図書; MOTO GUZZI DA CORSA (1941-1957)
       Alessandro Colombo著 GIORGIO NADA EDITORE発行

  MOTO GUZZI DA
      Mario Colombo著 GIORGIO NADA EDITORE発行


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